昭和49年06月12日 朝の御理解



 御神誡 一、「口に真を語りつつ心に真のなきこと「」

 いう信心の心得ここでお道の信心に、要するに御神誡と言う物は、やっぱり出来ない事をという、人間にはいわばとても出来ない。ろくそも出来そうにもない様な、苦しい事難しい事は一つものってない。ね。例えば誰他の宗教の仏教の五戒とか。又はキリスト教の十戒命を掛けたもうそれこそ、もう普通の者ではとても出来そうにもない、いわば戒律と言った様なものがありますけれども、お道の信心にはこの戒律と言った様なものじゃなくてね、ただ心にかける信心の過程を。
 だからそういう心を磨かせて頂くと言う事。もういうならばどの一ヶ条を頂いても、是はとても出来んと言う様な事は一つもないのです。けれどもその中でも私はこの「口に真を語りつつ心の、心に真のなきこと」と言う様な、所謂心得なんですけれども、難しいといやこの御教えが一番難しい事はないかと私は思うですね。いや是はね信心をさせて頂いたらどうでもね、あの心なからなければ本当のおかげが頂かれんのです。ね、
 外と内が違うたり口で言う事と、行動に起こる事が反対であったりと言った様な、いわば心得ですか、そういう心掛けではね、おかげは受けられますよ御利益は。なんぼでも受けられますけれども、あの所謂真のおかげが頂かれんです。だから本当にあの人は真の人じゃと言われる様な人はね、言う事する事と云う物が一致してるでしょうが。ね、例えば合楽でもそうですね、あの正義さん達の信心なんか、信心ぶりというかまぁ人格というかね。まぁこの人の言よんなさる事だから間違いなかろと。
 是が仕事にも繁盛する、してる訳です。それはもう本当隣近所ん方達にの、話をもういわゆるですね、本当にあぁもう信心なしよござるばってん、さっしゃる事はもう本当、いうような噂をきくのです。けども私は正義さんの事だけは、あのもう本当に何というですかね、もうこっちが嬉しゆうなろうごたった。もうあっちこっちから入って来る例えば様子だとかですね。そりゃ久富建設のは、ね、いうならば真面目な方だと、言う事とする事が間違わないと。
 そういう意味であの人は合楽では第一、第一人者だと思うですね。正義さん。私共がその、その真の人というのはね、やっぱしそういう所謂言う事する事が一致する、しておる生き方の人を言うのだと思うです。むしろ私は言うておる事よりも、しておる事の方がね、立派だと言う様な、表よりも裏を大事にすると言った様な、生き方こそ信心には目覚しい。本当にお徳を受けると言う様な方達はもう皆そうです。ね。
 あぁ言い御座るけれども、当てにはならんと。と人間から思われる様な事ではです、神様がご信用下さるはずありませんよね。ん、人間からも信用されん人が、真の道を辿らせてもらい、真の信心をさせて頂くから、神様のご信用が付くのです。ね、一番簡単なご信用とは、御神徳の事です。そこでならそういう信心をさせて頂くと、第一どう言う風におかげが頂けるかというとです、やはり心の上におかげを頂くのです。ね、いうならば真の人になる事を努めさせてもろうて、真の道を歩くのですから。
 私は今朝ある方をお願いさせて頂いておりました。まぁ普通でいうならば、ね、なら信心させて頂いておっても様々な事が起こってまいります。そう言う時に又かとか又困った事になったなと。たのんだら崩れると言う様な場合です、いわば年中感じます。所が教祖様は、その「難はみかげ」と教えておられるのですからね。だから難をみかげと素直に頂けれる心が生まれて来ないです。真の道を踏んで行きよらんと。
 だから難儀は難儀、困った事は困った事としてね、あのしか思え切れないなら、そして信心しておって、そうしか考えないならですいかに私は例えば、今日の御理解当たりが、忠実に守られていないかと言う事を思います。こりゃまぁあの信心を別にしたら又別ですよ、お道の信心をさせて頂いて真の道をいき、真の信心をさせて頂いておるとです、ね、教祖様の仰る事でも素直に「難はみかげ」とこう仰るのがね、難を即みかげと頂けるのです。例えばあのチキリね、計り。
 計りのお知らせを頂いたんですけれども、あの棹ばかりですねこうやって昔は使いました。こんなものを次から次に載せてからそして、小さいのからなんだっても計れ様な棹ばかり、あれがありましょう。あれをねあの分銅をねあのゼロの所を持って来ると、あの棹というが水平になるんです何も掛けなくったって、ね。ゼロん所にもって来ると水平になるです。それが水平にならんならばそのチキリが狂うておるとです。
 皆さんご承知でしょう。皆さん分かる。あの何もかけなくても、分銅をね、あのゼロん所持ってをこうすっと、この棹も水平真っ直ぐになるんです。それがもしならんならば、チキリは狂うておると言う事。
  (三十秒ほど声が途絶えている)
 そこで例えばそれならこれが、二百キロばかり、二百キロばかりと致しましょうか。ね (テープ切れ?)
 ですから御神誡なら御神誡をです、本当に自分は、どの様な事を説かれると心に、心に真の無い生活ばかりをしてきたなぁと思うて来た人が改めて、ね、いうならば、そういう生き方にならせて頂いて、信心の稽古をさせて頂いておりますと、こりゃ神様が与えて下さるんです。
 勿論ゼロん所を持って来ると言う事は、何もない時には、お互いが心が平生であると言う事なんです、ね。平穏無事な時には、心がへい、平気であります。あんた、信心頂いておるけん、これできおかげ頂ましたと言う様な。けれども十斤もなくてもような事の問題がぽっと起こると、直ぐつんと上がってしまう。
 もう50斤のもん持ってこんならもう、こう引っくり返ってしまう。そう云う事では信心頂いておる値打はないでしょう。なら十斤のもんだと思う時には、もう棹ばこう握っておいてから、十斤の所へ、こうやってやれば、水平。こんな所へね、百斤もあるからという、いうなら百斤の所へもってくれば、百斤のもの、いうならば百斤の重みのある様な難儀な問題なら難儀な問題が起こって参りましても、びくともする事はいらんと言う事なんです。
 百斤ばかりの程度の信心しかしとらんとに、そりゃ百十斤の問題が起きてくれば、改まる。だから信心はいよいよ極めにも極め、いうならば、信心のお育てというか、十斤だからから、五十斤ばかり、百斤ばかり。それこそ、千斤万斤の物をかけてもびくともせんだけのです、そういう信心にならせて頂こうと願うならばです、もう絶対、今日のこのみ教えは守らなければ頂けんです。
 どんなに信心が高尚になっても、道理は分わかっても、今日は私が申します様な、それこそびくどんな場合であっても、びくともせんと言う様なおかげが生まれて、心の上に、神様が許しなさらんです。そういう意味でです、この御神誡というのは大事に本気で、ね、行じ様と思えば行じられる。守ろうと思えば誰でも守れれる、いうならばそれでも真の道の心得とあります様に、お道の信心をさせて頂く者の心得としてです、これが自分のものになってしまう、いうならば精進をしなければ、信心のある者もない者も変わらんのです。
 心の状態がかえって、おとっておる様な事ではです、おかげは受けられても、神様のご信用は付かん。神様のご信用が付かんから、ね、おかげを頂いても、さぁ何かあるともう真っ青にならにゃん。ね、それこそ、ね、百斤ばかりにはりきってチキリに、掛けた時きんというて、あがってしまうなら。だからそのくらいのおかげは一つ、頂かせて頂こうという願いは立てなきゃいけんです。
 なら口ではこうやってみ教えを言ってますけれどね、実際はなかなか難しいです。けれども、これはまあ私自身の事ですけれども、本当におかげを頂いて、本当にその、どういう難儀な問題と言う様な、問題の時にいたってもですね、いわゆる私に頂いておる力の範囲であるならばです、ね、例えて、まぁあえて申しますなら、幹三郎が、死亡の宣告を受ける程のその病気をしてた。
 お医者さんの、皆んなのお医者さんが、ね、百の物のうち、九十九はもうダメだと言われたんですから、もうその時に皆さんも、ご承知の通りです、私がどの様な態度であったか。そりゃ信心の上にも自分の子供を失うと言う程しの事だから、大変なことなんです。ね。いわゆる万が一にしか助かる道はもうないというのです。それも奇跡以外に、奇跡が起こらん限り助からんと言われたんですから。
 そういう時にです、それが例えば信心の家にあったならば、信心のその所へ、私が分銅をこう持って行った。だから、一つもあがらんで済んだ。普通からいうたら、本当私は、ガタガタ振るうたごとあろうと思うですね。一番初め、富永先生が見えて、応接まで、いわゆる診察をしてくれた時に、高橋さんが見えておりましたから、ただ皆さんが立ち会って下さったんです。それこそ富永先生の顔色が変わった。
 それこそ逐一なら私聞かせて頂きましたけれどもです、おかげを頂いてから一つもあがらんで済んだ。是はやっぱ本気で教えをなら私なりに行じて、いうならば表よりも裏というを大事にする様な、いうなら信心の心得というものを何時も心得としてそれを行じておるから私は、そういうおかげ頂かれるんだと思うです。だからそういうおかげを頂いて行くから、神様のご信用も段々厚くなって来るんだと思うんです。次にお知らせを頂いた大水が入ってきて、お水が入って来夜時にはもう水がいっぱい濁ってますよね。
 ある人が自転車でいきよっ所をもう自転車で行かれんごとなった。自転車でもうやんがて沈むごとなった。そこへ一緒に小船がやって来たから、その人は、自転車もろ共その船に乗せてもろうて行く所を頂いた。これはどう言う事かというとね、いうならば、どんより濁っておる、けれどもやはり水ですから、お恵みはお恵みなんです。おかげはおかげなんです。そうして、なら自転車でいっておる、自転車でと言う事は、自分の我力、自分の力でという意味の事ですね。自分で踏んで行くという。
 我力で行っておるという人がです、ね、もうどうにも出来ない、もうにっちもさっちも、後にも先にも行かれなくなっておる。ね、それはいかにも目の前には、難儀の様に見えますけれども、それはおかげだと言う事です。水が増えて来ておる事は、それは泥水ではあるけれどもおかげだと言う事です。だからおかげの中にもね、もう本当に清らかな水のおかげと、泥水の様なおかげとがある訳です。だから泥水の様なおかげの時を、普通の人は難儀というのです。ね。
 清らかな水の水道の水の様な時は、これは有難いいうならば、誰が見てもおかげという時なんです。ですからなら泥、泥水がね泥水のいうなら、水がこうやってこう抜いて来るそういう時にです、私共、その難をいわば「難はみかげ」と仰るのですから、それをみかげとして頂く時に、今度は特に久留米の初代が「この世は徳の船に乗って分かれ」と仰った。その自転車でおいて、自分の力で踏むと言う物をおいて、祈り救い上げられて、船に乗って、いわゆるもう船任せにった時にです神様任せとい鵜事。
 神様まかせになると言う事は、こんなにも有難い事だと言う事が分かるから、その水が今度は引いた時にの後は、自転車に乗るこの世の中は徳の船に乗って渡る、が一番だといういわば、ん徹底的な信心がそこから出来る様になる。ね、そう言う様な信心がです、ね、出来る様になるそこから、真の道が開けて来る。真の信心とはそこからです。ね、ですから、み教えは申しましたけれども。
 矢張りそういう難儀なら難儀と言う様な事に直面して、自分の知恵やら力ではどうにも出来ない時に、無条件に神様の前に手を上げる様に、もう自転車でいけないと分かった時がおかげなんです。そして、神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う事が分かって、その子供にならせてもらう、その船に乗っていうなら任せきっての、いわば目的に向かわせてもらう。
 そして成程神様のおかげを頂かなければ立ち行かんと言う事が分かって、その子供にならせてもらう、その船にのって、いうなら任せきっての、いわば目的に向かわせてもらう。そして成程神様任せになる事はこんなにも素晴らしい、有り難い事だと言う事になる。だから、ならその道が今度は、水が引いた暁にはです、ね、成程この世は徳の船に乗って行く事。いうなら神様にみだいを任せ、縋り切っての生き方が、一番有り難いんだと言う事が分かる。
 そういうおかげがですね、今日私が申しました「口に真の語りつつ、心に真のなきこと」と言った様な信心ではね、そういうおかげになってこないです愈々の時に。ん。今日は、ね、「口に真を語りつつ心に真のなきことという」意味を聞いて貰ったのではなくてね、信心させて頂く者のいうならば心得として、神様はこういうみ教えておられるんだ。こういうなら心を自分の信心の心として行かせて頂けば、こういうおかげが受けられると言う事を一つ聞いて頂きたい。ね、
 同時に又これをいうなら行じないならばです、やっぱり口と言う事となす事がです、何時も違った様な生き方をしておるならばです、おかげは頂いていってもです、それでは徳の船は何時まで経っても、やっぱこないと言う事です。「口に真を語りつつ、心に真のなきこと」と、本気で自分自身をね、もう反省させて頂いて成程信心させて頂くなら、信心にならなければだめです。お道の信心ぶりというのが自分の上にも、商売の上にも生き生きとありありと現れて来る様な、いわばお道をしておるならば、そういうお道になる。どこか違うと思いよった。言う事する事が違うと思いよった。
 金光様のご信心しよってからと、言う様な信心が身に付かなければね、問題がない時は平穏無事だとじゃなく、それこそ自分の事の時にはなんでもないごとあるけれどもです、ね、ちょこっと何かがあると、もうあらあらにならん、あわたにゃならんという時には、分銅こいと行ってくるとね、どう言う様な事であっても、それは自分の頂いておるチキリですけれどもです、段々一つ大きなねそれこそ信心難儀になって来ても、びくともせんと言う様なおかげを頂きたい。
 同時に教祖様は「難はみかげ」とこう仰るのですからどういう難儀の様相を、それは手にしておりましても、よくよく心の眼を持ってすると、それはおかげだと分からなきゃいけん。ね、そこで即それをおかげとして頂けれる信心。ね。それを難儀とせずにおかげとして「難はみかげ」と。素直に頂けれる信心。そういう風なおかげの頂かれる、いうならば前準備とでも申しましょうか、そういう時に取り寄せ、受けられんと言う事はです、例えば教えに本当にお互いが忠実であらなければならない。
 取分けこの口に真を語りつつ、今日の御神誡にもです、信心させて頂いておるなら、本当にそうならなければね。それこそ苦しみをも掴む様な事では神様のご信用が付くはずがありませんからね。ただ商売成就と言った様な事だけで商売繁盛しておる、例えばしてもですそれではね、本当なおかげになりません。それこそ花は咲いても実は実にならないという事ですね。
   どうぞ。